昭和44年2月23日 朝の御理解

御理解第7節「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終わりもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心はせんでもおかげはやってある」



 天地金乃神は昔からある神である。途中から出来たのではない。天地はそれに流行ることもなかなければ、終わりもない。けれども、金光教の信心は、やはり流行ることもある、又はそれが(きに落ちる?)こともあるということが言える。
 天地の親神様の働きというものは、それこそ天地のある限り、天地の親神様の働きというものは、流行ることもなければ、終わる事もない。流行ることがなければ、終わることもないというようなことでしょうけれども。
 金光教の信心は、私は頂き方を間違えたり、又は、なら何時までも今のような状態であっては、必ず私は衰微すると思う。発展していかないと思う。
 その時代その時代に、天地の親神様の働きを、いよいよ現していくところの働き。金光大神のお取り次ぎの働きによって、その時代時代に、本当の、その天地の働きを働きとして、現していくおかげを受けていかなければ、金光教は衰微すると思う。ね。
 ここんところ、金光教はもう天地と共に、極まりなく発展していくという風に頂いては、まぁいけないと思うですね。天地の、天地金乃神がそうであろう。天地の神様の働きは何時も同じであろう。けれども、その働きを働きとして、あの、それを現していく。とりわけ、取り次ぎの働きということになって、それを現していく。
 その働きが、鈍って来たり、なくなったりしたりしたら、金光教の信心は、必ず衰微する。いうならば、今のような、何時までも今のような状態、今はこれで良いかもしれない。けども何時の時代も、このような時代であっ、このようなものであったら、私は衰微すると思う。
 ね、その時代その時代に、まぁ(いやば?)はっきりしていくというですか。ね、そういうものがなからなければ。ね、私共の、まぁ青年時代は、まぁ洋服を着ておるというだけでも、まぁいうなら、まぁシャレておった部類であった。
 (周りの?)青年の中にでも、背広を持っておっとるのは何人しかいなかった。ね。ネクタイを締める事すら知らない人が沢山あった。ね、今頃の青年層の中にネクタイの締め方を知らんなんていうような人はない(しるた?)。背広を持たないといったようなこと、おそらくまずないだろう。
 しかもそれは柄といい、好みといい、いわゆる形ね。スタイルですか、デザインというですか。それも自分の体にぴたっと合うたもんでなからなければ、もう受け入れない。ただ首吊りが出ておるのを、そのまま買うて来て、着るといったようなことはよういたしませんです。
 ね、もう今の時代では、そうでありますようにです。ね、やはり一つの、まぁ流行というかね、というものがあって、それにぴたっと合うていかなければ、皆がそれを受け入れない。
 このお道の信心というのはそうである。やっぱりその時代、その時代に(そこう?)した、又それに答えられる。それに答えておかげが受けていけれる信心でなかったら、私は、やはり心もとない気がする。
 もう十七、八年も前でしたですかね、頂きましたみ教えの中に、★取り次ぎの働きというのは、天地の中に、いわば、天地金乃神の働きというものが、こういっぱいいうなら(へんまん?)しておる。そこんところを、一番最後に「信心はせんでもおかげはやってやる」とこう言うてある。「信心はせんでもおかげはやってやる」。
 これは、まぁ御理解7節に、一番最後んところに、取って付けたような感じがするけれども、やはりここも大事なところ。ね、天地金乃神は昔からある神ぞと。だから、流行り、流行ることもなから、ないかわりに終わりもないという。だから、天地日月の心になることが肝要だと。
 ここまででよかりそうなもんだけれど、最後に、かん、信心はせんでもおかげはやってやる、とこういうておられる。ね、ここだけ取って付けたようですけれども、決してそうじゃない。
 その天地のその働きというものが、その天地の中に、いっぱい神様のおかげを頂かせて下さろうとする、働きがいっぱいなのだ。ですから、私共が信心しておかげを頂かなければね、その天地の中に(へんまん?)しておる、そのおかげも、それを受けとめていくというか、キャッチしていくというか、それが出来ない。
 ね、ただ、おかげはやってあるという、そのなるほど神様のお恵みようがなければ、私共は生きていけない。そういう働きは、これはもう並べての生きとし生けるものが受けておる訳なのである。全ての者が。ね。
 神様のおかげを、これは受けていく。けれども信心しておかげを受けるということは、そういうね、まぁ(へんまん?)しておるそのおかげをですね、お道の信心でいうならば、取り次ぎの働きによって、ね、特別に受けられるというおかげなの。ね。
 無常の風は時を嫌わんというが、金光大神の道は無常の風が、に時を嫌わす、とこう仰る。ね、これなんかは、その特別な働きがあるからです、無常の風が吹いてくる、もう例えていうならば、今日は死ななければならないという運命にある人でも、神様のおかげを受けて、ね、また命を頂くことが出来る。
 無常の風がそこまで吹いてきよった。それを神様のおかげで向こうの方へ吹きはなしてしもうて下さるというような、働きの出来る信心なんだ。ですから、そういうおかがが受けられなくなったら、もう金光教の信心はお終いなんだ。
 お取り次ぎということはどういうことかと言うと、ね、金光大神の働きがここにあっておる。お取り次ぎの働きというものが、ここ御結界というところにあっておる。けれどもその、どんなに強烈な働きがここにあっておっても、ね、その強烈な働きを散漫にしたり。それを反対に、の働きにしたりするようなことになったんでは、助からんことになる。
 そこで、ここのお取り次ぎの座に奉仕をする者は、金光大神の働きを働きとして、そのまま素直にわが身に受けて、それを信者氏子に伝えるという御用でなからなければならんのに、金光大神のそうした強烈な働きを散漫にしてしまう。
 昨日、北野の秋山さんが二度目のお参りをした時に、言っており・・・。大体他の、他所の教会で昔御神縁を頂いておった方ですから、金光様のご信心を長い間頂いておって、いわゆる先生は、あぁ言われる。でも自分の気分とは合わない。
 けれども神様がご承知じゃから。神様がご承知じゃから、神様がご承知じゃからと思うてお参りをしておった。お取り次ぎの先生はあぁ言いなさるけれども、いわば気分に合わんようなことがあっても、いわれてもです、ね、先生は、どこまでも人間なんだから、神様はあー言いなさる、先生はあー言いなさるけれども、自分の言うたり思うたり、行なうたりしておることは、神様がご承知だからと思うて、お参りしておった。
 しかしそれを私は聞いた時に、ほんにそうだなぁとこう思うんですね。私共もやっぱそうであった。
 私共の、私が信者時代。もう八つ波の御紋章をみれば、又教旗が上がっておればどこの地方へいってもやはり、ちょっとお参りしなければおられなかった。(今回は?)ほれで先生のいわれることは、どこの先生でも同じこと。一つの問題でも色々違うのである。
 どれが本当やら分からなくなってくるです。どれを信じて良いか分からなくなる。けれども、私がこうやって八つ波の御紋章を見ただけでも、そこによらなければおられん、拝んでいかなければおられない、その、この気持ちだけは、神様がご承知だからお参りしよった。
 もう何処へいったっちゃ違うけん、かえってこっちが迷う。だからもう他んところには参らん。ね、長崎に行きゃ、長崎で。佐世保に行きゃ佐世保で。門司行きゃ門司で。小倉にいきゃ、勿論小倉に。
 もうあちらこちら商売で周りますから、もう行ったところでは、教会をまず泊まる前の晩に確かめておいて、そして明くる日には、一番の電車、市内なら市内電車に乗って、その教会に朝参りさせて頂いた。
 そしてなら、いわれることは、一つの願いことを、同じ願いことだけれども、ここんとそことは違う。そこでこりゃ先生のいよっしゃることは、あんまり信用は出来ない。けれども神様が、私は心を向けておることはご承知だからというような気持ちでお参りしよったことと同じような意味のことであろう。
 秋山さんが言う、他所にお参りさせて頂いておった時には、ね、先生はどうであっても、神様がご承知だからと思うて、お参りをしておりましたけれども、合楽に御神縁を頂いてもう18年ですか。ね。
 合楽では違う。私共は、神様は分からないちいう。ね、神様は私共を分からないけれども、先生は分かる。ですから、まず先生に分かっておってもらわなければ、心もとないというのである。
 ははーなるほどなぁ、それは本当に、まぁ合楽と、ならその自分の基おかげを頂いておった教会との違いをそういう風に、秋山さんは受けておるが。こりゃ秋山さんだけじゃなかろう、皆さんがやっぱそうではなかろうかと思うのです。
 神様実際は、分からんのである。分からんけれども、親先生だけは分かる。しかも親先生がいうならばおかげを現しておられる。そこは分かるのである。ある意味において、一分一厘間違いのない働きを、親先生が受けておられる、そのことは分かるのである。
 分かるから、なら親先生にだけは、分かってもらっておかなければ。ね。例えば、親先生に自分が不愉快な思いをさせておるとするならばです、その不愉快な思いをさせておることを、ね、よく確かめて、そこんところを、例えば詫びて、詫びて、詫びておかなければ自分の心が心もとないというのである。
 昨日の朝もそのことについてお詫びをしたけれども、どんなに考えてもそれが、どうもすきっとしたお詫びになってこない。許された、許されたと思わない。そこで又先生の好きなものでも買わせて頂いて、それを持って先生のところへやって来た。
 そこで御理解を頂くうちに自分の心がすっきりしたとして、その後にいうておられることがです、ここでは親先生に分かって頂いておかなければ、心もとないとこういうのである。ははーなるほど、と私は思うた。
 それはどういうことから、そういうことになってくるのであろうか。お取り次ぎの働きというものがです、ね、天地のお働きをね、ここに集めて、ここに集中して、そしてそれを取り次いで下さる。そういう働きが、御結界であり、お取り次ぎの働きなんだ。
 神様の世界と氏子の世界を取り結んで下さるここは場なのである。ね。ところがです、ね、そこが、取り次いで下さる場にならずに、かえっておかげを散漫にすることになっておるような場合があるというのはどういうことであろうか。
 私は教団で、今言うておられることの中に、腑に落ちない事が、まぁいくつも色々ある。例えばよくいわれる、あの問題を問題としてというようなことの。例えばもしこれが、こういう信心が何時までも今の金光教に続いておったらですね、私はおかげは受けられなくなってくると思うです。
 ね、どんな問題を、その問題の面だけを見て、問題を問題としていくんだったら。ね、どういう問題が起きて参りましても、その問題がです、自分にそれが、その問題が、身近に感じられれば感じられるほど。
 又はその問題が自分の苦しいことになってくるなら、くるほどにです、その問題を直視せず、ね、その問題だけを見つめず。その問題を通して、自分の心を見つめていくということにならなければ駄目だ。
 何時までもその問題が、よし解決してもおかげにはならない。お徳にはならない。ね、その問題を問題とせず、問題を自分の信心として、頂くという生き方にならなければ、私はその辺のところを思うんですね。
 少しずつ金光教の信心が間違うて行くのじゃないか、というような(ふぐうねん?)を私は感ずることがある。生きた働きというものがなくなってくる。人間的になってくる。
 この御結界というところには、まぁ例えていうならば、ね、レンズたい。いわゆる金光大神の働きをそのままに受けれれる人がここには座っておかなければ、おかげにならんといわれる。これは私が、以前に頂いたみ教えです。ね。
 いうならば、太陽。ね、太陽の熱というものが、ここに天地日月の心とこういうておられるが、その日【にち】の心ですね、日【ひ】の心。太陽の心をですね、太陽の働きをですね、ここに集中する。(ちおう?)
 皆さん子供の時にやりなさった事があるでしょう。レンズを持って、墨で黒くすったやつを下にこう置いておくと。これがここに、そのね、燃え出すように、熱いものに集中することが出来るでしょうが。
 御結界の働きというものはそういう働きがなからにゃいかんのです。ね、世界の氏子全部に、ね、信心はせんでもおかげはやってあるのだけれども、そういうまぁおかげ。そのおかげをもっと強いもの、強力なもの。ね、無常の風は時を嫌わんというけれども、無常の風を、の時を嫌わすのが金光大神の道だと仰るのは、ね、助からん者でも助かるというような、強烈なここに働きをここに受けるからそうなんです。
 ここに集めることが出来る。金光大神の取り次ぎの働きというものが。ですから、ここで例えばね、ね、いうならば、ここに煮えてないものがあっても、それが煮えて、煮えるようなままになるおかげが受けられるわけなんだ。
 そのかわり、そこに苦労というかね、真っ黒いその、苦労。いわゆるめぐりの基、めぐりの基を焼ききる事も出来るわけなんだ。めぐりのお取り祓いを、そん時はちった熱かばってんね。
 太陽の、普通は、ただあー丁度よかぐらいのつが、そのレンズの働きによってずーっとここに、そのしぼられますから。信心をさせて頂いて有り難い。心の上にも有り難い。何とはなしに安らぎが頂けれるように段々なってくるとです。信心しよってどうしてこのようなことが起ってくるじゃろうかというようなことがある事がある。
 あげん信心しござるとに、どうしてあげん難儀が続くじゃろうかと、私共言われた時代があったんです。考えて見ると、そん時にこそ金光大神の取り次ぎの働きがです、いよいよ真っ黒い苦労の基であるところの、それを焼ききって下さりよった時だったんです。
 ね、いうなら、めぐりを根【ね】から根【こん】から取り払うて下さっておった時なんです。めぐりの取り払いの働きも出来れば、おかげをおかげにして下さる働きもここでは出来れる、強烈な働きが取り次ぎの働きによって出来るのです。
 ね、なるほどそれでは、なるほどお取り次ぎの働き、いわゆるお取り次ぎを頂い、御取り次ぎを頂いてというが、御取り次ぎを頂いていかなければいけないことが分かる。又御取り次ぎを頂いておかなければ心もとない。
 ね、日々御取り次ぎの働きを頂いて受けて、日々生活が出来ていくところに安定した、安心したおかげが受けられる。ね、ところがです、ね、そういうおかげの頂けれる金光教の信心を頂いておる、この教祖のそうした有り難い、尊いお取り次ぎを頂ききることが出来るのにも関わらずです、ならここにです、今度はそういうレンズたい、同じレンズであっても、こう引っ込んだレンズがありましょうが。
 こう円くなっておるとじゃなくて、引っ込んだれんず。ね。その、そういうレンズたいの人がもしここに座ったとしましょうか。金光大神の働きは無くなってしまうどころではなくてです、むしろおかげの受けられるものを、いわば、ここに神様の働きを集中する事が出来るけれども、この御結界のここから、反対にこういう風に放射するわけです。かえって散漫になってしまうわけなんです。ね。
 ここにこういう風に集中する、あの太陽の熱をここに集めることが出来るのが、こういう風になるわけなんです。ここで八の字になってしまうわけなんです。反対に。だから、ここでお取り次ぎ頂いておるものは、そのむしろその熱に受け、を受けることが出来なくなってくる。
 そういう例えば、取り次ぎ者が段々増えるとするならば、もう金光教の信心はね、これはもう流行らんごつなってしまうという事になるじゃないですか。ね。同じレンズたいであっても、同じ取り次ぎ者、金光大神のお許しを頂いて取り次ぎの御用をさせて頂いておる。その取り次ぎの御用をさせて頂いておる者がです、ね。
 例えばいう、まぁ露骨にいうならば、信者のおかげをここで横取りしてしまうような、もし先生が座っておったら。いうならば我情我欲で座っておる先生があったならば。人間心ばっかりでお取り次ぎをする先生があったとするならば。
 ね、これはおかげがここで、いわゆる引っ込んだレンズが座っておるようなものですから、おかげが散漫になって行くわけなんです。ね、そのことから考えても分かるでしょうが。ね。
 ね、そこで天地と共にです、極まりなく発展していけれる道におりながら、天地は流行ることもない。流行ることがなからないから、こそ、又終わることもない。そういう神様を金光大神の信心によって頂いておるのであるから、ここに分からなければならん事は、天地日月の心になる事が肝要なんだということになるのです。ね。
 いよいよおかげをおかげとたらしめて行く。天地の働きを働きたらしめて行く。ね、いうならば、無常の風を、に時を嫌わすほどのごひれいを打ち立てて行くところの信心が、なされてから、初めて天地と共に流行る、ね、天地と共に発展していく事が出来れることになるのですけれども。
 ね、結局はここに歌ってございますように、天地日月の心になる事肝要なり、と仰せられるのに、天地日月の心をそれた心、それを只今一例を申しますと、問題を問題としてというような事はです、ね、これは信心のない者でも、いわば言う事である。
 その問題を問題として、その問題の根を突き止めて。ね、その問題を解いていこうとこういうのである。ね、私がいうのは、その問題の、勿論根は根だけれども、その根というのは、ね、そこにあるのではなくて、その問題に、その難儀なら難儀に直面しなければならない人の心の中にあるのだと(しておる。?)
 ですから問題を問題にせずに、問題を信心としていく。問題を信心にして行かにゃいかん。ね、例えば叩かれて痛い。お前はどうして俺を叩くかと、いうて問題にして行くのではなくて、叩かれなければならない元を自分の心に追求していこうというのである。
 何故自分が叩かれなければならないのかという事。そして、なるほどここに叩かれる元があったんだとするところにです、改まりがある。ね、そこに相手を傷付ける事もなく。ね、いわゆる自分も人も、自他共に助かって行く道が開かれていくのである。
 そういう心を私は天地日月の心だという風にまぁ、今日は分かって頂けばいいと思うのです。いうならば神様の心を心としての、天地の心を心としての信心がなされていかなければならない。ね、そういう信心が、私は段々こう薄くなっていっておるような感じがする。
 ね、ですから、時代の、例えば要求に応える事が出来ずに、ね、いわゆるそのおかげが気迫な、薄いものになって行くようなことになるのではなかろうか。そういうことになったらどういう、それは立派なことを例えば言うておっても、どんなに素晴らしいお書物が出来ても、生きた働きというものをこの世に現していくことが出来なくなってくるのである。
 ね、いわゆるきせい宗教。いわゆる今まで千年も2千年もの歴史を持っておる大きな、例えば宗教は幾つもある。そういう宗教が段々本当の宗教の力といったようなものを薄くしていっておる事実を見れば分かるのです。
 ね、例えば不思議なおかげを頂くとか、奇跡的なおかげを受けるとかというようなことは、そういうようなことはおかしいというようなことになって来る。ね、医者で助からんとが、信心でようなったなんていうと馬鹿のようにいうような宗教があるけれども、ね、そういう風になっていったら、もう宗教のいわば使命というものすらを、私は疑う、なければならなくなってくると。
 宗教の私は、あー、究極のところはです、ね、結局は人の難儀が助かって行くということにあるのであるから、そこが受けられる信心に、いよいよお互いがしていかなければならんためにです、天地日月の心になる事が肝要だという事になる。
 ね、なら天地日月の心ということを、まぁ天地の心を心としてという事になる。ね、いわゆる天地の道理、天地の、にある一つの心理ね、そういうものを分かって、ね、信心に基づいた生き方。道理に基づいたところの生き方というものがなされていかなければならない。
 そしてここに強烈な、ね、強烈な働きのあっておるその働きを、自分のめぐりの上にもおかげの上にも頂いていけれる信心がです、ね、取り次ぎ、取り次ぎをなす者、取り次ぎを受ける者の中に、一体となっていかなければならない。
 秋山さんが言われるように、今まではです、昔はです、神様がご承知じゃからの信心であったけれども、神様から、神様がご承知であるだけでは心もとない。親先生に分かっておってもらわなければ、心もとないという信心なのである。
 ね、そこに取り次ぐ者、取り次がれる者の、いわゆる(しんくしん?)があるわけである。ね、取り次ぎの者を信じておればこそ、そういうことになってくるのである。ね、取り次ぎの者の働き、信心というか、それを信じてこそここでおかげが頂かれるのである。
 まぁそこで、まぁ最後にですね、まぁ結論としてですよ。その天地日月の心になること肝要だと。ね、または、信心はせんでもおかげはやってあるんだけれども、そのおかげをもっともっとおかげ足らしめるところに、天地の働きがある。
 そういう働きを受けて現していかなければ、天地と共に発展していく宗教ということになってこない。そのためには、ならどういうことになるのか。御神訓の中に、「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ」「やれ痛やという心でありがたし、今みかげをという心になれよ」とあります続いて。
 「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ」と。私は天地日月の心という事はね、こういう心が生まれてくるようになるんです。「悪いことを言うて待つなよ、先を楽しめ」と。明日のことが不安で不安でたまらない。先の方がもう、先真っ暗。そういう考え方ではね、おかげは受けられん。
 ところが段々段々信心をさせて頂いて、神の心を心として、ね、道理も分かって、道理に沿うた生き方、信心が出来ていきよるとです、もう必ず先はおかげが受けられる。必ず先は受けられるという、見通しの付いた明るい生活が出来るようになるのである。
 神様は必ずおかげを下さる。そういう心なのである。それを反対に悪いことを言う。先はどげんなるじゃろうかち私は思います。よく子供のおらす人達が言われるですね。もう子供もおらんから、先はどげな風になるじゃろうかと思うて不安でたまらん。金なっどんどん貯めとかにゃとね、これはもう悪いことを言うとるわけなんです。悪いことを言うて、悪いことを言うて待つなよ、と仰るけれども、悪いことを言うて待っておるようなもんだから、だから悪い事が起ってくるのである。
 ちゃんと神様が見て下さるのだと。神様がおかげを下さるのだというような心がです、天地日月の心になる事、といわば天地の道理に沿うた生き方信心をしよらんとです、悪いことを言うて待たなければ、不安でたまらないようになってくるのです。
 次には、「やれ痛やという心でありがたし、今みかげをという心になれよ」と。ね、これは私何時も言うようにです、この方の道は喜びで開けた道じゃから、ね、喜びじゃ苦労させんと仰るから、喜びなさい喜びなさい、嘘んでもよいから喜びなさいち私が言うです。
 ね、一切を喜びで受けていきなさいと。ね、そこんところをです、例えばその嘘にでも良いから、喜んでいきよるうちにです、ね、それが本当に有り難うなって来るて。ね、そういう生き方なんです。そういう生き方が出来るような信心を、私が天地日月の心がもう理屈の上では分からなくても、もうすでに天地日月の心になること肝要なりと仰るが、もう天地日月の心になっていきよるんだと私は思うです。
 ね、そういう生き方の信心がです、いよいよ生き生きとしてくるならばです、ね、それこそ、天地は流行ることもなからければ終わりもないのでありますから、そういう神様の働きを金光大神の強烈な、そういう御取り次ぎの働きによってです、ね、それと相俟って、いわばいよいよおかげをおかげたらしていく。いわゆる天地の働きを働きたらしていくごひれいというか、働きというものを、自分の身の上にも、家の上にも現していくことが出来るのです。
 天地日月の心の、というものを、ね、金光様のご信心を頂いている、行くうちに段々、全てのことが喜びで受けられるようになる。信心しておれば一年一年有り難うなってくる、と仰せられる、一年一年有り難うなっていけれる。
 先のことがどうなるじゃろうかというような、例えば普通でいうなら心配ことであっても、それを心配事とせずに、必ずおかげにして下さる、必ずおかげになると確信して、先を明るい思いをもって過ごしていけれる日常生活の上にです、天地の親神様の働きをいよいよ頂き止めていくことが出来る。
 まぁ結論として、いうならこの、おー、例えば二つのみ教えをです、自分の信心の上に頂いて、どのように頂いていきよるであろうかと。ね、先を不安に思うておらんか。ね、本当に例えば、痛いことであってもです、はー今こそおかげば頂きよる時というように、ね、辛い時があってもです、はー今こそめぐりのお取り祓いを頂いている時と思うてお礼を申し上げれるような心が、出来ていきよるならば、あなたの信心はもう絶対なもの。として、私は頂くことが出来るとこう思うですよね。
 ご理解七節に、「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神ではなしと。天地ははやることもなし。はやることがなければ終わりもなし」と仰せられることは、ね、天地の働きはそうであろうけれども、金光教の信心はそうとは言わない。
 例えばもし、今のようなままの信心であるならば、金光教は必ず衰微する。問題を問題としていくといったような生き方であるなら、必ず衰微する。ね、その問題を、自分の信心として、信心の内容として、そこを突き止めていくような信心。
 ね、問題を自分の心に頂いて行くというような信心になるならばです、これは天地と共に、私は、ね、発展のおかげを頂いていくことが出来るとこう思う。ね、そのためには天地日月の心になる事が肝要だと言う事を今日は皆さんに聞いて頂いた。
 最後に「信心はせんでもおかげはやってある」というのは、なるほど信心はせぬでも、天地の親神様の働きというものは、もう並べてのものが受けておるのである。生きとし生きるものが、全て受けておるのである。
 ね、それなるほど、それはおかげ受けておる。けどもそういうおかげでは、特別の助かりというという事になってこない。そこにお取次ぎが必要になて来る。ね、いわゆる御取次ぎの働きを信じ、御取り次ぎのその人を信じ、信じられる氏子と取り次ぎ者との関係というものがです、いよいよ密になっていかなければならない事を感ずる。
 ね、そこに先程レンズの例話を持って申しましたように、ね、強烈な神の働きをです、ね、宇宙にこう(へんまん?)しておる、その働きをここに集中する。それは丁度、レンズと持って、その太陽の熱をここに集めるような働き。
 その太陽の熱をはたら、集めるその働きは、ね、一切のことをままにして行く働きもある代わりにお互いの苦労の基であるとこのめぐりを焼ききっていく働きも勿論あるということ。
 ね、だからそういう事をです、生き生きとしたおかげをいただい、頂けれるお広前ではですね、生き生きとしたお気付けがあるといわれております。ね、それはそこのお広前に生きた働きというものがあっておるからなのだと。そういうようなことを聞いて頂きましたですね。
 どうぞ一つ、お互い天地日月の心になる事をもっともっと、一つ肝要だと仰るのでから、もっともっとそこんところをです追求して、ね、こういう生き方こそ、天地の心であろうか、日月の心であろうかと分からせて頂いて、信心を進めていかなければならんと思うですね、どうぞ。

梶原 佳行